
- あの日から15年が経ちました
- 宮城県で長い時間を過ごしました
- 妻は岩手・三陸で育ちました
- 青森に隠し子 (?) がいます
- 毎週福島を訪ねています
- 東北の日本酒は美味しい!
- でも東北は元気です!美味しいものもたくさんあります
- おわりに
あの日から15年が経ちました
今日は2026年3月11日です。
あの日…東日本大震災から15年が経ちました。あの震災は,本当に衝撃的な出来事でした。
あの時,僕は東京で仕事をしていたのですが,はじめ大きな縦揺れがきて,横揺れまでにしばらく間が空いたので,「遠くで大きな地震が起こったな」と思いました。棚から本が何冊も落ちました。東京にいてさえ,揺れが尋常ではなかったので,机の下に潜りました。
大きな揺れがおさまった後も周期の長い揺れが断続的にきて,自分の平衡感覚がおかしくなっていきました。

そしてインターネットで「宮城県で震度7」というニュースを見たのですが,その後情報が入ってこなくなりました。
職場からは「公共交通機関が全て止まったので速やかに帰宅するように」との連絡が入りました。
僕も自宅まで4時間かけて歩きました。道中,道の狭いところでは,通り抜けるために行列ができていました。
なんとか帰りついたものの。津波の被害があんなに酷いことになっていると知ったのは,うちでテレビを見てからでした。
宮城県で長い時間を過ごしました
名取市の沿岸部でなつかしい時間を過ごしました
東北は私自身がなつかしい時間を過ごした場所です。特に宮城県名取市の沿岸部,下増田・北釜地区で長い時間を過ごしました。
そこは海岸からほんの300 mほど。海岸線と並行に「貞山運河」が流れているところです(こう書くと,私がそこでどんな活動をしていたか,わかる人がいるかもしれません)。
当時この場所には畑が広がり,農家が点在していたものです(その方々にも大変お世話になっていました)。また畑を区切るように防砂林が植っており,海が直接見えることはなかったのです。

けれどもあの日の津波は北釜地区にも襲い掛かり,多くの方が犠牲になりました。また畑はもとより防砂林も塩害を受けて機能を失いました。
私が活動の拠点としていた建物は,鉄筋コンクリートの3階建て。管理人さんは塩釜で漁師をしている方でしたが,2階のバルコニーからロープを下ろして,避難する人を引き上げたそうです。

僕が過ごした右の建物が,北釜地区で唯一残りました
はじめ2階で過ごしていたところ,水が上がってきたので全員で屋上に上がったけど,第2波がさらに頭上から襲ってきたので一時は「覚悟した」と。
その後,北釜地区は地盤沈下が確認され,集団移転となりました。その結果,ここは現在「何もない」地域となりました。貞山運河を挟んだ対岸にある,仙台空港が賑わっているのとは対照的です。

いまこの地域に行くと,防砂林がなくなってしまったので,海まで素通しです。あらためて「海がこんなに近い場所だったんだ…」と驚きます。

岩沼市・千年希望の丘
北釜地区の南隣,相野釜地区(行政管理上は岩沼市になります)にも畑が広がり,農家の方々の生活がありました。しかしここも集団移転となり,もと農地・住宅地だったところは丸ごと避難丘を備えた祈念公園になりました。

この公園と避難丘は,「千年希望の丘」と名付けられています。現在は訪れる人も少ない静かな場所で,岩沼市にとってもその管理は少なからぬ負担になっているかもしれません。いろんな意味で大切な場所ですから,放っておくこともできませんし。
だから宮城県に行った時には,北釜地区とともにここを訪れては手を合わせています…正直それくらいしかできないのですが。

2014年,震災から3年後にもここに来ました。当時まだ幼かった息子が慰霊碑を見て「鐘を鳴らしてもいい?」と聞いてきたので,「うん,いっしょに鳴らそう」と2人で鐘を鳴らしました。
岩沼市によれば,この鐘には「鎮魂・記憶・希望」の3つの意味が込められているとのことです。この地域に千年後も続く希望が訪れることを願って止みません。
閖上地区では朝市が賑わいを見せています
北釜地区の北側,閖上 (「ゆりあげ」と読みます) も津波で甚大な被害を受けました。けれどもここの朝市は,まだ津波の傷跡が生々しい時期から再開をはじめました。

高さは8.6 m,あの日ここを襲った津波の高さと同じです
現在は周囲に水産加工品の工場ができて,住宅街も徐々に出来上がりつつあります。この様子を見るととてもうれしくなるとともに,自然に応援の気持ちが湧き上がります。

閖上震災メモリアル公園を訪ねて慰霊碑に手を合わせたあと,朝市で海鮮バーベキューを楽しむ。そんな時間も楽しいものです。東北の観光先として候補に入れてみてはいかがでしょうか。
県都・仙台市は大きく発展しています
県都・仙台市はその後大きく発展しました。僕が過ごした頃は「郊外」だった長町がいつの間にか人々で賑わう場所になり,青葉山にも地下鉄が開通しています。

まだ傷は痛むけれど,宮城県は一歩一歩前に進んでいます。牛タンや笹かまぼこを食べに,みなさんぜひ訪ねてみてください。
妻は岩手・三陸で育ちました
普代村の巨大水門
僕の妻は三陸の普代村で生まれ育ちました(今は,義実家は内陸の紫波町にあります)。
小さい頃から津波の怖さを教えられ,地震が起きるとそれが小さなものであっても,また夜中であっても近くの山に登って避難していたそうです。
今も普代村には親族がいるので,時々訪ねることがあります。普代には見上げるような巨大水門があります。その高さは15 m。これは,この地方が長年津波と戦ってきた証でもあります。

写真の右上に,青い看板がかかっているのがわかるでしょうか。ここには「3.11 東日本大震災 津波到達高 23.6 m ここまで」 と書かれています。
また村内には,いたるところに津波の際の避難経路が記されています。古くから残る神社が避難場所になっているのは,この地方の歴史を物語る象徴的なことだと思います。

宮古市・田老地区の震災遺構
宮古市の田老地区にも,震災の遺構が残っています。津波で下層階が流出した「たろう観光ホテル」。近くで見ると建物の基礎部分も崩れており,ここを襲った津波の恐ろしさがわかるのです。

この建物は震災の記録として,保存されることが決まっています。
三陸地方には「津波てんでんこ」という言葉が伝わっています。これは「津波が来たら,まず自分の命を大切に,一人でも逃げなさい」という意味の言葉です。響きはかわいらしいけど,とても重い覚悟を秘めた言葉だと思います。
たろう観光ホテルは,その後市内の高台に移転し,「たろう庵」として営業しています。とてもいいホテルで料理も美味しいですよ。おすすめです。

宮古は本州で最も早い夜明けを迎えるところ。周りの海岸も美しいし,魚市場をのぞいて回るのも楽しいですよ。

…こんな風景を見るとね,海は恐ろしいだけじゃなくて,やっぱり美しくて日々の恵を届けてくれる存在でもあるんだなあと思ってしまうのです。
青森に隠し子 (?) がいます
東通村と交流があります
実は僕,青森に隠し子がいまして…って,いやいやそうじゃなくて(笑)。
僕の息子が通っていた小学校が,青森県の東通小学校と交流しているんです。そして東通村の子が,うちにホームステイに来てくれたんですよね。女の子だったんですけどね,もう可愛くて可愛くて。娘ができたみたいな気持ちになりました (^ ^;)。
その後うちの息子も,東通のその子の家にホームステイに行きましてね。で,その時に父兄チームも東通村に行って観光してきたんです(子供達とは別行動で)。

そんなわけで,青森の東通村には縁があるんです。そのとき息子が植えたブルーベリーの木も,今はきっと大きくなったことでしょう。
東通はいいところですよ。ホタテもイカも美味しいし,東通牛も最高です。

みんなで写真でを撮るときに,笑顔を作るでしょ?東通村では「せーの,ひがしどおり!」って言って口角を上げるんですよ。かわいいなあ。
東通ではホタテが上がる漁港にも行ったんですが,地元の方にお話を伺うと「やっぱりここでも津波の影響はあったよ」っておっしゃってました。
東通村のべこもち
東通村の郷土料理に「べこ餅」があります。もち米を練って作った,ほんのり甘いお菓子です。交流事業の時に,これを作るところを見せてもらったんですが,とても面白かったのでどうしても紹介したいと思いまして。
まあ,この写真を見てください。




ね?すごくないですか?こうやって,各家庭でオリジナルのべこ餅が作られているんです。ちなみにこのべこもちに描かれているのは,寒立馬の「ゆめちゃん」です (^◡^)。

僕の息子がお世話になったお家からも,こんなに可愛いべこ餅が送られてきました。左のはキティちゃん?食べるのがもったいないくらいです。
東通村の挑戦〜子供たちを育てるために
また東通村では村の小学校と中学校を一か所に統合し,立派な校舎を作りました。そして村内にスクールバスを走らせて通学を支援しています。そうして,充実した環境で子供達を育てるという取り組みを行なっているんです。

小学校と中学校は渡り廊下でつながっています
私も東通小学校・中学校を見学してきましたが,とても充実した施設で「まるで大学のキャンパスみたいだ」と思ったものです。「子どもたちは,ここで過ごした時間がいい思い出になるだろうな」とも*1。

青森県産ヒバ材がふんだんに使われています
これは地域を活性化させ,また郷土愛を育む,一つのモデルケースになるんじゃないかなと思いました。
- - - -
*1 もちろんこれは,原子力発電所関連と共存することで,潤沢な予算があるからこそできることではあるんですが
東通村の能舞
実際,そんな取り組みの結果でしょうか。村に伝わる伝統芸能・能舞を,若い人が受け継ごうと頑張っています。東通村の能舞は,約500年前に修験者によってもたらされたものだそうです。
ちなみに何年か前の交流事業では東通能舞の上演があって,その時に参加した人に聞いてみたら,能舞で鬼が舞台から降りてくる時はすごい迫力で,大人でも怖いと。子供はもちろん大泣きだそうです。でも,その鬼を演じてた人に次の日会うと,ただのおっさんだって。

また能舞で鬼が子供をさらうために舞台から降りる時に,躊躇するそぶりを見せるんだそうです。地元の人によると,(舞台の)幕の向こう側は神の世界で,そこを出て俗の世界に出る時には神も戸惑うことを表現しているんだと。
東通の地元の人たちと飲んだ時にも能舞の話になり「そういう伝承は途絶えさせたくないですよね」というと,地元の人はあっさり「途絶えんよ」と笑っていました。「村でみんなでやってるからね」と。
毎週福島を訪ねています
7年前から福島に毎週仕事に行くようにもなりました。
震災後の原子力災害もあって,福島は地震・津波の被害に加えて,深刻な風評被害に見舞われてきたところです(科学的な根拠を無視した風評には,強い憤りを感じます)。
でも福島はとても良いところです。花がきれい,山がきれい,そして果物が最高 (^◡^)。何よりも,ここで出会う人々は みなさんとても素敵な人たちばかりです。

春の福島桜めぐりは,毎年とても大きな楽しみです。今年も桜の開花が近づいて,今からどこを回ろうかとソワソワします。

そしてこれは何度でも言いたい(見せびらかしたいw),福島のフルーツは最高です!特に桃はほっぺが落ちます!

毎年果樹園を訪ねて,もぎたての桃を使ったパフェを食べてるんですけどね。こんなおっさんがパフェを食べても絵にならないけど,いいよね。
福島市では駅東口に新しい商業施設がもうすぐ完成します。賑わいが増すといいなあ。
東北の日本酒は美味しい!
震災のあと東北のものをできるだけ買うようにしようと考えた結果,日本酒は東北のものばかり飲むようになりました。

「こんなのあまりにもささやかすぎて,そんなに役に立てないよなあ」なんて最初は思ってたんですけどね。1週間〜10日に一本くらい開けて,気が付けば15年で500本くらい飲んだように思います。

そう考えると,それほどバカにならない量だな,ちょっとは役に立ててるかな?…なんつって (^ ^;)。
でも東北は元気です!美味しいものもたくさんあります
そんなわけで,震災以来,できるだけ機会を作って東北を訪ねるようにしてきました。
まだ震災の傷は残っています。それでも,声を大にして言いたいことがあります。「東北は元気です!」。
お世話になった場所,思い出深い場所。そして何より大好きな場所。
東北の美しさは震災前と変わることがありません。そして美味しいものもたくさんあります。

そんなところを訪ね歩くのは,とても楽しいものです。
最初のうちは「復興のために少しでも行ってお金を落として…」なんて大それた考えを持っていたのも事実です。でもいつの間にか,「楽しいから行く。大好きだから行く」それだけになりました。

結果として,それがほんのささやかながらも復興の後押しになればいいなと思いつつ。
おわりに
あの日から15年。とはいえ復興に「区切り」があるわけではありません。
これからも東北の復興と発展は続いていきます。
そういえばこんな歌があったっけ。
思い出は辛く悲しく
心の傷を 繰り返し撫でるとも
ゆこう再び 旅立とう(山之井愼「ゆこうふたたび」から)
私たちは災害の多い国に住んでいます。地図を眺めれば,いくつかの地層プレートが接する場所に隆起した島が日本の国土そのものであることがよくわかります。

その後も熊本の地震や能登半島地震など,ひとごととは思えない出来事がたくさんありました。
これからも災害に備えながら,「だてに地震に耐えてきたんじゃないよ」と言える日々が送れたいいなと思います。
こちらも見てね



