潮がふくらむ 潮が流れる
––白い素船が走る
先日,東京都北区・王子にある飛鳥山博物館で「丸木舟ラボ」という特別展が開催されました。北区中里遺跡から発掘された,縄文時代の丸木舟に関する展覧会です。
訳あって古代の舟にはむちゃくちゃ惹かれるものがありまして,矢も盾もたまらずに見に行ってきました。地元でこんな舟が発掘されていることに,感激しつつね。
ちょっと自分語りが多めの話になりますが…メンゴ(←古い)。
東京都北区・中里遺跡の丸木舟
会場に入るとすぐに展示されていたのは,北区・中里遺跡から発掘された縄文時代の丸木舟。
おお,これは…。かっこいいぞ!心の深いところを刺激されて,魂が揺さぶられます。
これは東北新幹線の大宮-上野間が開通する際に発掘調査が行われ,その時に見つかったものだそうです。
この舟,現存する長さは5.79 m, 欠損した部分を復元すると 7 m 程度になるそうです。これは縄文時代の船として,標準的な長さだとのことです。
観察すると,舟は丸太を巧みにくり抜いて作られていることがよくわかります。長い年月で朽ちてきていることを考えると,元々はもっと厚みのある舷だったのかもしれませんね。
そうじゃないと水圧に耐えられないでしょうし。
内側には木が焦げた跡があります。細かい細工をする際に,木に焼き目をつけて削ったのではないかと考えられているようです。
舳先の造形が見事です。このあたりの基本的な形は,現代の船とそう変わりないように見えますね。
この舟には何人くらい乗っていたんでしょうか。"7m"というのは,競技用ボートだとシングルスカル(一人乗り)と同じくらいの長さですが,幅が太めだから2~3人は乗れたでしょうかね。
古代の中里遺跡
現在,東京都北区は赤羽から王子,上中里にかけて,段丘崖が続いています。ここはかつての海岸線だったと見られています。
かつての中里集落は王子の段丘崖から突き出た砂州の上にあったと考えられており,ここに大規模な貝塚が見つかっています。
また貝塚の規模から,ここは自給自足を越えて内陸の集落へと貝の加工品を供給する「加工場」の役割を果たしたと考えられています。
このパネル↑にも,中里集落から武蔵野台地上・石神井川流域の集落へと貝の加工品が運ばれていたことが記されています。これら集落間の移動・運搬に,丸木舟は大活躍していたことでしょう。
舟の「オール」やミニチュアの舟もありました
展示品には丸木舟本体に加えて「櫂(オール)」と見られるものもありました。先端が平べったくなったこのオールを,舟に乗った縄文人たちが息を合わせて操っていたことでしょう。
そして丸木舟の「ミニチュア」と見られるものも。
これは祭祀に用いる意図で作られたとの説明がありますが,縄文時代の子供たちの玩具だったのかもしれないなー,そうだったらいいなーなんて想像を逞しくしているところです。
ちょうど郡山市歴史情報博物館のねこ型土偶のようにね (^◡^)。
ちょっと自分語りしてもいい?
さて,ちょっと自分語りしてもいい?…最近は「ツバメ愛の話」や「桜に寄せたエッセイ」を書いたりしてね,ちょっと暑苦しく語りすぎかもしれませんが (^ ^;)。
柳田國男の著作に「海上の道」という話があります。穀物の種を握りしめ,素朴な丸木舟を操って,日本にやってきた我々の祖先の話。
話は黒潮に乗って椰子の実が日本の沿岸にたどり着くところから始まります。
[海上の道] 青空文庫はこちら
この話は 「我々はどこからやってきたのか?」という琴線に触れる問いと,そのあまりにも美しい世界観ゆえに,いろんな派生作品を生み出しています。
この本に題材をとった「海上の道」という合唱曲がありましてね。
僕は高校生の頃,この曲に出会ってその世界にすっかり魅了されてしまったんです。
穀物の種を握りしめ われら名を持たぬ海の旅人
––太陽と月とに祈ろう
それで,高校では山岳部にいたんですが,大学ではボート部に入ったんです*1。山から水辺への華麗なる転身…なんつって。
素朴なボートを漕いで漕いで漕いで漕いで無心になれたとき,目の前に黒潮の海が広がるような,そんな気がしていたんです。
精霊よ舳先に宿れ
我ら尚持たぬ海の旅人
実際のボートはそう簡単ではなかったけど,そんな憧れを持ち続けて ずっと今まで過ごしてきました。僕のテーマは,ずっと「海上の道への道」だったんです*2。
––椰子の実がたどった道に何があったか? ってね。
このパネルのタイトルは「海と縄文人」。縄文の心を,胸のどこかに持っていたいよねえ。太陽と月とに祈る心をね。
––競技用のボートは洗練された設計だけど(水の抵抗を少なくするための設計がなされているんです),シルエットは中里遺跡の丸木舟に似てるよね!
- - - -
*1 人に話すときは「血迷ってボート部に入った」なんて言ってるけど,自分の中ではハッキリと理由があったんですよ
*2 そうそう,ボート部に入ってよかったもう一つの「かけがえのないこと」…それは妻に出会ったことです (^ω^)
丸木舟作りを再現する
中里遺跡では,丸木舟作りの再現実験が行われたようです。これ,参加したかったなあ!きっと血湧き肉躍るような体験ができたんじゃないかと思います。
丸木舟には,関東ではクリ,カヤ,ムクノキなどが使われていたようです。対して関西ではヒノキや杉がよく使われたとのことです。
再現実験で作られた舟の浸水の様子を見ると,6人が乗り込んでいますね。復元実験で作られた舟は,現在東京都立大学に展示されているとのことです。
丸木舟作りに使われる斧/石器も発掘されています。木の先に石器をくくりつけたもの。
またこれを用いて削った丸太のサンプルも展示されていました。縦斧と横斧。
木を切り倒す時には縦斧を,細かいところの細工には横斧を使っていたらしいです。
こんな斧を使って木を削り出して,そうして作った舟に乗り込んでみたいねえ。自分の中で何かが目覚めそうです。
そういえばだいぶ前だけど,国立科学博物館で「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」というのをやってましたよね。この話を聞いた時もドキドキしたなあ。
ところで日本最古の舟とされているものは,千葉県市川市の「雷下遺跡」から発掘されているようです。
大和地方や九州の方ではないんですね。なんだか不思議で面白いです。
丸木舟が見た風景
また「丸木舟が見た風景」と題して,遺跡から発掘されている土器なども展示されていました。
日本各地から発掘されている火焔土器に共通した特徴があることは(この間見てきた郡山の縄文式土器とも共通点がありますね),この時代に広い範囲での交流があったことを示唆しています。
その交流の場でも,素朴な丸木舟が活躍していたんでしょうか。
そしてそんな集落間の移動に用いられた素舟が,大海へと出ていくものになっていったのもまた自然なことでしょう。
舟はもと内地の小さな止水の上で、発明せられたものであったとしても、是が大陸の沿海地方にまで、移し用いられるようになるのは容易でありまた自然である。ただあの茫洋たる青海原に突き進み、ことに一点の目標もない水平線を越えて行こうとするには…
(柳田國男「海上の道」から)
…うーん,ロマンティックが止まらないわぁ。
様々な用途に使われた石器の数々。
左の円筒形のものは「男性を象徴した祈りの道具」という解説が付いてます。今よりも命を繋ぐことが大変だった時代には切実な祈りだったのかなあなんて思いますね。
縄文時代の装身具,貝輪。ブレスレットでしょうかね。それを入れて運んでいたという土器も展示されています。
これら装身具も,武蔵野台地上の集落との交易に供されていたようですね。写真右側の「オオツタノハ」は伊豆諸島でしか獲れない貝らしいから,ここにも海を越えた移動があったということなんでしょうね。
オオツタノハのブレスレットはその美しさから人気があったようです。
おわりに
身近なところで心揺さぶられる展示会があってうれしかったです。会期中,関連の講演会もあったようですが,これには自分のタイミングが合わずに残念 (>_<)。
中里遺跡の丸木舟は,普段は常設展で展示されているということなので,また見に行きたいです。
おお目を上げよ 沖は紺青
心でたぐる まぼろしの道
無限の遙けさへ続く 海上の道よ(丸山豊「海上の道」から)
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