毎年春になると,桜に夢中になって過ごします。今年も桜めぐりをしているうちに,5月になってしまいました。
山では新緑が芽吹き,街では初夏の陽気になってきた今日この頃ですが,僕はいまだに「桜の二日酔い」で過ごしています。
気がつけば「来年はどこの桜を回ろうか」なんてぼーっと考えてる自分がいて,思わず苦笑してしまいます。
そんな思いを,ちょっとだけ文章にして残そうかと思いまして(笑)。
春になると狂おしい気持ち
光のどけき春の日に…
小倉百人一首の中で,紀友則という人がこんな歌を詠んでいます。
ひさかたの 光のどけき 春の日に
静心(しづごころ)なく 花の散るらむ(小倉百人一首33番)
静心なく…というのは桜が散っていく様を「落ち着かない心で…」と詠んでいるんでしょうかね。
「桜よ,もうちょっと落ち着いて咲いていてよ」って。
昔の人もそう思いながら桜を愛でていたんですね。
桜は散っていくからこそ…
桜は儚く散っていくからこそ美しい。それはその通りなんですけどね。
もう少しだけ長く咲いていてくれないかなあ。ついそう思っちゃいますよね。
桜の「見頃」ってせいぜい1週間。その間に自分の都合と天気がうまく合うかって,なかなか難しいですし。
世の中に 耐えて桜のなかりせば
春のこころはのどけからまし
これも本当にその通りですよね。「ああ桜が散ってしまう。桜の季節が終わってしまう」って,焦りにも似た気持ちを感じてしまいます。
昔,冬の終わりに似た気持ちになっていました
昔 高校生だった頃,僕は札幌に住んでいたんですが,冬の終わりに似たような気持ちになっていたんですよね。
「ああ,スキーシーズンが終わってしまう…」って。
その頃は(今でもですが)スキーが大好きでね。その季節が去っていくことに,なんだか焦りのような気持ちを感じましてね。何だかいても立ってもいられなくなってたんです。
「シーズンが終わる前に,もっと滑りに行かなきゃ!」ってことですかね。
今はそれが「桜の季節」になってしまったようです。
「もっと桜を見に行かないと,花が散ってしまう!」って。
そして桜の季節はスキーシーズンよりもずっと短いから,焦りもなんだか強いようです…。
桜が咲くと,狂おしいような気持ちになります
そんなこんなで,桜の季節にはなんだか狂おしいような気持ちで毎日を過ごします。
いえ,桜の咲きっぷり自体が,ちょっと狂おしいような,そんな感じですよね。
特にソメイヨシノが咲く様子は「狂ったように咲く」という言い方がぴったりなような…。言葉はあんまり良くないけどね。
そんなふうに咲いた花が,1週間くらいで散ってしまうんだもん。そりゃあ僕たちも狂おしい気持ちになるってものです。
山は逃げない…?桜は?
山は逃げる…!?
ところでちょっと話がそれますが,登山がらみでよく「山は逃げない」って言いますよね。
山はいつでもそこにあるから,天気が悪かったら無理しないで計画を立て直そうとか,焦らずに段階を踏んでステップアップしていこうとかそんな意味合いの言葉でしょうか。
でもね…。
「山は逃げる」んですよ。
登山道が崩落したとか廃道になったとか,よくあります。
例えば奥多摩・鷹巣山の稲村岩尾根ルートは2020年に登山道が崩落して,5年経った今も復旧していません。
木曽御嶽山は2013年の噴火のあと,しばらく入山が制限されていました。
飯豊連峰のオンベ松尾根は,薮がかぶって廃道寸前になっています…。
こうやって「登れなくなる山」ってあるんです。
そして何より,自分自身が歳をとっていきます。山に登る体力が,いつまでも持つわけではないんです。
うん。行けるうちに行っておかないと,「山は逃げる」んだ…。
桜だって…
桜にも似たところがあるんです。
桜ってそんなに強い樹ではないよね。昔から「桜守」という存在があるのも,それが一つの所以かと思います。
実際,雪で大枝が折れたり,病害虫で木が弱ったり…そういうことはしばしばあります。
かつて福島の桜番付で上位だった郡山の「忠七桜」は台風で倒れました。田村市の「曲山の愛姫桜」は枯れてしまいました。
そして滝桜に次ぐ美しさを誇っていた「合戦場のしだれ桜」も,病害虫の影響で樹勢がとても弱っています。
美しい桜をたくさん回りたい。狂おしいまでにそう思ってしまうのは,「桜も "逃げる" かもしれない」そんな思いがどこかにあるからかもしれません。
息子が生まれたときに桜を植えたかった
「息子の桜」を植えてみたかったな…
桜めぐりをして思うこと…。
都内のマンション住まいだからできなかったけど,もし地方で庭付きの家に住んでいたら,息子が生まれた時に桜を植えたかったな。
いま息子は二十歳。桜も20年経てば,それなりに大きくなって,けっこう花を咲かせていたんじゃないかな。
(駒込・六義園のしだれ桜が,樹齢70年であんなに立派な木になってることだしね)
「〇〇 (息子の名前) の桜」なんて名前をつけたりしてね。そうすれば,きっとその桜を特別な思いで眺めることができただろうな。
じぶんの木
「じぶんの木」という絵本があります。
朝日連峰の山ふところで暮らす わたる と,熊撃ちだった伝じいのお話。
伝じいは,最後にわたるに話します。
誰にでも「じぶんの木」というものが,どこかにあるんだと。
人が生まれると,どこかにポッと,
同じように木が芽を出す。
なんの木か,どこの山かはだれにもわからない。
けれどもたしかに,じぶんの木というものが
かならずある,といいます。–– わたるの木も,じいちゃんの木も,どこかにあるんだ。
んだがらな,じいちゃんが死んだって,
じいちゃんの木はどこかで生きつづけている。
わたるの木のとなりかもしんねえぞ。
中には千年だって,二千年だって生きつづけるものもある。
んだから,ちっとも,さみしくはねえのよ ––(最上一平「じぶんの木」から)
息子の桜を植えていたら,その木に思いを寄せて過ごしていたかな。
それとも息子が生まれた時に,どこかに「息子の木」が芽吹いたのかな。
僕の木もどこかにあるのかな。
それは桜の木かな,それともブナの木かな。
なんてね。
桜には圧倒的な生命のエネルギーを感じる
生命のエネルギー
桜の古木には,圧倒的なエネルギーを感じます。
数百年(三春滝桜に至っては千年!)の長い年月を生き抜いてきた風格と,今もなおびっしりと花を咲かせる生命力。
その尊さに,言葉を失ってしまうのです。
各地の桜を回ると,地域の人たちによってとても大切に手入れされているのがわかります。また例えば滝桜は,きっと三春の人たちの誇りでしょう。
桜は,その地域の人たちを結びつけるエネルギーさえ持っているように思えるんです。
子供たちを見守る桜
最近,ちょっと意識して撮っているものがありましてね。それは「公園の遊具と桜」の組み合わせです。
満開の桜の下で子供達が遊んでいると,桜に見守られているように見えるんです。
これも桜のエネルギーがあればこそ。
日本では,各地の児童公園に桜が植えられていますよね。これももとより「桜が見守る生命」をイメージしれてのことなのかなあ,なんて考えています。
桜と天の川は難しい…
そんな桜のエネルギーには,「宇宙」を感じることもありましてね。大げさかなあ。
桜の季節には,夜半過ぎに夏の天の川が登ってきます。
それで,「桜と天の川」の写真を撮りたいと毎年思ってるんですけどね。
空が暗いところに立っていて,東側が開けていて,なおかつ西側に回り込むことができる…そんな立地の桜ってなかなかないんですよね。
いくつか候補はあれど,月齢や天気もうまく合わないと撮れないので,なかなか難しいなあと思っています。
来年の春も楽しみです
ここ数年,福島で桜めぐりをしています。その度にすっごく感動してきました。
また来年も。訪ねたい桜はまだたくさんあります。
そんな数々の桜をめぐるには,まだ何年もかかるでしょう。さらに写真を撮ることを考えると,「いい光」が当たる時間に訪ねることができる桜は,1日にせいぜい2,3本でしょうか。
だから長い目で考えて楽しんでいく必要がありますね。…いえ,長く楽しむことができますね。
そんなことを考えながら,気がつけば「来年の桜めぐりはどこを回ろうかな」って…(最初に戻る 笑)
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