宮城県名取市および岩沼市の被災地を訪ねてきました。
2011年の東日本大震災では,この地域も地震と津波によって大きな被害を受けました。
両市の海岸沿いは,津波の被害が大きくなるとされるリアス式海岸ではありません。反面,標高の低い平野が広がっているところです。
そのため震災後の復興において,三陸地方とはまた違った対応を迫られています。
三陸・宮古市の被災地の様子はこちら
名取市閖上地区へ
名取市震災メモリアル公園で慰霊碑に祈る
仙台の海岸沿いから名取市へ。向かったのは「名取市震災メモリアル公園」です。
この公園は,津波で七百数十人の方が命を落とした,閖上 (「ゆりあげ」と読みます) にあります。海沿い,名取川の河口近くです。
メモリアル公園に着いたら,まずはじめに震災慰霊碑に行ってお祈りしたいと思います。
慰霊碑の前には,津波で犠牲になられた方々の名前が書かれた碑板があって,震災で犠牲になられた方々のお名前が記されています。これは以前の簡素なものから,御影石の立派なものへ作り替えられていました。
慰霊碑は「芽生えの塔」と名付けられています。ささやかに芽生えた希望が,空へ向かって伸びていく様子を表しているのでしょうか。
その高さは8.6 m。あの日,ここを襲った津波の高さと同じなんです。
慰霊碑の元に立つとね,高いんですよ。あの時,閖上の人たちが感じた恐怖はどれほどのものであったのでしょうか。
そんな中から,未来へ向けた希望が芽生え,育っていくなら,それを応援せずにはいられません。
慰霊碑のとなりには,こんもりとした閖上日和山があります(前記事で取り上げた蒲生の日和山とは別の山です)。その上には閖上湊神社。
また閖上日和山には「鎮魂と希望の桜」が植樹されています。だいぶ大きくなりました。
いつかこの桜が満開の花を咲かせる下に立ってみたいです。
「閖上の記憶」でお話をうかがう
閖上湊神社にお参りしたあとは,津波被害の資料館「閖上の記憶」にお邪魔します。
この資料館は,以前は閖上中学校の近くにあって少し遠かったんですが,最近になってメモリアル公園の隣,閖上朝市の敷地内に移ったので行きやすくなりました。
建物の前には,津波でひしゃげてしまったガードレールが置かれています。凄まじい破壊力です。
閖上は平らな場所で,津波から逃れられる高台がありません。あの日,地域の人たちが逃げ込んだのは,閖上中学校の校舎でした。
その閖上中学校も下層階は水没し,生徒14名が犠牲になっています。水に浸かったユニフォームや楽器が展示されています。
閖上中学校はその後小学校と合わせて,閖上小中学校として再出発しました。
緑の松原 美しく
海風薫る ふるさとに(閖上小中学校校歌から抜粋)
東日本大震災は,大切な「ふるさと」と人々とのつながりを浮かび上がらせたように思います。この校歌に歌われているように,名取から岩沼にかけての海岸は,松原が美しいところなんですよ。
室内には,「みんなのこと わせねえ」(みんなのことを忘れない)と書かれた竹が飾られています。
震災に関して,「記憶」はとても大切なことなんだとあらためて思います。
震災前の閖上を写した空撮写真も展示されていました。あのあと,海岸近くには公園や水産加工工場が作られた一方で,白線で囲まれた地域には再び住宅地が造成されました。
被災した場所が,再び住宅地として整備された町は珍しいそうです。リアス式海岸に面した町では,新しい住宅地が高台に造られたところが多いと。
そして一時避難していた住民の方々に,「再び閖上で暮らしたいか」というアンケートをとったところ,約4割の方が「また閖上で暮らしたい」と答え,実際に帰ってこられたたそうです。
さらに,そうして動き出した閖上に魅力を感じて移住してきた若い世代も多く*1,この地域は被災地の中では平均年齢が若い稀有な場所になっているという話が印象的でした。
*1 車で移動すれば,仙台への通勤もやりやすい場所だからね,とのことでした。
閖上朝市で美味しいものを食べよう
さて,閖上を訪ねると,いつも楽しみなのが閖上朝市の美味しい海産物。
ホヤ,牡蠣,ホタテ,赤貝,エビ,鮎…などなど買ったその場で捌いてもらって,バーベキューにして食べることができます。もちろん生でもいけちゃいます。
ただこの日は「閖上の記憶」でお話に聞き入ってしまったせいで,市場の店仕舞いが間近。あまりいろんなものは求められませんでした。残念!
でもこれがあればゴキゲン,ホヤです!焼きホヤを串でいただきます (^◡^)。
背景は名取川の河口と貞山運河*2 が交わる「広浦」。潮風に吹かれながら食べるホヤは最高です。
串焼きが美味すぎて(ホヤが大好きなんです),ホヤご飯も食べちゃう。
ホヤご飯は「普通」と「小」があったんですが,このあと海鮮丼も食べるので(こらー),「小」にしておきました。
他に美味しそうなものはまだあるかな?…おっ,ありました!鮎です。まるまるしてて美味しそう。
…というわけで,また広浦のところに行って,ガブリとかじりました。うまっ!
鮎を食べたところで少し落ち着いたので,あらためて広浦を眺めます。係留された漁船と太平洋につながる水辺。
海から吹いてくる風が内陸へ,はるかに蔵王連峰まで吹き抜けていきます(晴れていれば,仙台平野のずーっと向こうに蔵王連峰が見えるんです)。
…そしてそれはこの辺りに高いところがないということも意味しています。津波が来た時にこの辺の人が逃げ込める場所は,ほぼ閖上中学校しかなかったということなんですね。
*2 貞山運河は江戸時代に開削された,阿武隈川から松島湾に至る長大な運河で,日本で一番長い運河系のようです。伊達政宗の諡に因んでこう名付けられています。
メイプル館で海鮮丼も食べよう
さてさて。美味しいものをもっと食べちゃおう (^ω^)。ということで,「メイプル館」に入ります。
ここメイプル館は,2013年に震災で壊滅的な被害を受けたゆりあげ港朝市の敷地に,カナダ政府からの支援で建設された商業施設です。
それまで閖上朝市には固定した建物がなかったけど,これができたことで朝市がより活性化して,この場所に根付いたように感じます。
今年の5月には,ここメイプル館で「カナダに感謝する集い」も開催されました。
震災後(に限らないと思いますが),気づかないところでいろんな人に支えられているんですね。
メイプル館で食べたのはこれ!「閖上海鮮丼」。どーん!
閖上は赤貝が名物で,ここで水揚げされるものは「日本一の赤貝」と言われているんです。もちろん海鮮丼にも赤貝が乗っていますよー!
むほほほ。美味しいですなあ。赤貝の他にも,マグロ,カンパチ,タイ,サーモン,ホタテ,生シラス,茹でシラス,カニの爪,イクラが乗っていました。貞山運河で採れたしじみのお味噌汁も付いています。
うーん満足。ホタテのバーベキューはまた今度来た時に食べよう(涎)。
名取市北釜地区へ
人々が去った北釜地区
閖上朝市で美味しいものを食べたら,おとなりの北釜地区へ向かいます。
ここ北釜地区は,僕が宮城県民だった頃に長い時間を過ごした,思い出深いところです。毎日北釜を拠点にして,このあと書く岩沼市相野釜と閖上の間を行ったり来たりしていました*3。
震災前,ここ北釜地区には防砂林で区切られた畑が広がり,農家の方々がたくさん暮らしていました。
けれども震災による地盤沈下で,この一帯は「災害危険区域」に指定され,地域の方々は集団移転となりました。
震災直後は家々の土台だけが残る 荒涼とした場所になり,心が痛んだものです。でも現在はきれいに整備され,以前とはすっかり変わりました。ただ震災前と違って,人の生活はありません。
*3 相野釜と閖上の間を往復して何をしていたのかは,一応内緒で(汗)。「わかる人にはすぐわかる」んですが…。
下増田神社を訪ねる
そんな中で,唯一以前の面影を残す「下増田神社」を訪ねます。
震災のあとここを訪ねるのは何度目かな?ここに来るのは,僕が過ごした場所がこの神社のすぐ隣だったからでもあります。
下増田神社は,この一帯がまだ無残な状態だった頃から,早くに仮の拝殿が置かれ再建が進められていました。
そして津波で崩れた鳥居も,立派なものに作り替えられました。
集団移転となって,北釜地区から人がいなくなったのに,下増田神社はなぜ早くから再建が進められたのか。
それは,神社は町が町であるための拠り所だったからではないでしょうか。そしてこの神社を残すことは,たとえここから人が去っても,ここに町があったことの証になるからではないでしょうか。
誰もいない神社の境内で,一人そんなことを思いました。
北釜地区のこれからを思う
下増田神社の境内の向こうに,「北釜防災公園」が作られています。避難丘を備えた公園。
避難丘の向こうには貞山運河の堤防が続いています。この堤防も震災後に高く作り替えられました。
人が住まないこの地域をどのように活用・維持していくのか。それは地元自治体(名取市)にとっては悩ましい問題を含んでいると思います。
この「公園」も,避難丘の設置が主目的なのかもしれません。この日も閑散としていましたが,ここに家族づれが遊んで賑わう,そんな日が来ることを夢想してしまいます。
北釜地区は華やかな仙台空港の,貞山運河をはさんだすぐ向かい側。そんな場所にこういう一角があることを伝えたい。
おとなり閖上地区の被災状況は,震災後メディアによって,比較的多く取り上げられていたように思います。また朝市が賑わい,街にも人が戻ってきつつあります。朝市を訪ねた人が,慰霊碑に手を合わせている姿もあります。
一方,北釜地区は人がいなくなったこともあって,あまり語られることがないように見えます。
僕はここで長い時間を過ごしたものとして,この場所の様子を伝えていくことが責務のように感じています。草の根の一人ですけどね。
岩沼市相野釜地区のいま
岩沼市・千年希望の丘へ
続いて南側,相野釜地区に向かいます。ここは北釜のすぐおとなりですが,行政区画としては岩沼市に属しています。
ここも北釜地区同様,津波によって甚大な被害を受け,地盤沈下もあって集団移転となったところです。
かつて人々が暮らしていた広大な地域は,全て無人の公園となりました。岩沼市ではこの公園とその中に点在する避難丘を「千年希望の丘」と名づけて,整備を進めています。
その中心にあるのが,震災慰霊碑。人と人とが支え合う形で,その高さは8 m。やはりここを襲った津波の高さと同じにしてあります。
慰霊碑の真ん中にある鐘について,こんなことが書かれています。
中心の鐘には3つの意味が込められています。
「鎮魂・記憶・希望」
3回鳴らしてお祈りしてください。
僕もその通り3回鳴らして手を合わせました。鐘の音は思ったよりも大きくて,遮るもののない公園を,ずっと遠くまで響いていくように感じました。
相野釜地区には3つの避難丘があります(もっと南の方に別な避難丘もいくつかあります)。そのうち,慰霊碑からすぐのところに見えているのは2号丘。
登ってみましょう。
2号丘の高さは11 m。その上に立つと,思ったよりも高さを感じます。そして避難丘ができる前は,この辺に高台がなかったこともよくわかります。
相野釜地区は仙台空港の向かい側
ここ相野釜も仙台空港はすぐ近く。飛び立つ飛行機もよく見えます。
そして貞山運河を挟んで,こちら側と向こう側に残酷なまでの違いがあるのもわかります。
2号丘からは海が見えています。あの日,あの海面が盛り上がってここに押し寄せたんですね。
1号丘も見えているので,行ってみましょう。公園の通路の両側には植林された木々が茂っています。震災後まもない頃に来た時に比べると,ずいぶん大きく育ちました。
1号丘には,震災前の相野釜地区の空撮写真が掲示されています。ここにたくさんの人たちが暮らしていた頃のことを,僕はよく知っています。それが一面の公園に変わってしまった。
その変化にあらためて驚きます。「ここは本当に,あの相野釜なのか?」と。
1号丘の上からは,海がすぐそこ。松林をこえて潮騒の音も聞こえてきます。
相野釜地区やおとなりの北釜地区がこんなに海に近かった…そんなことを再認識します。
千年後の君へ––千年希望の丘全体構想
この公園の全体構想を示す看板が架けられています。ここ相野釜地区から阿武隈川の河口に至る海岸沿い,広大な地域が整備されていく予定です。
これは裏を返せば,この広大な地域が災害危険地域になり,人々が住めなくなってしまったということでもあります。
その被害の大きさにあらためて絶句するとともに,この公園を整備・維持していくことの大変さを思うと,地元岩沼市にも頭が下がります。
この日も千年希望の丘公園では,人影はまばらでした*4。いつかここが市民の憩いの場になって,活用されていくといいなあと思いました。
*4 2号丘を登っていくときに,丘の上から下りてきた女性とすれ違いました。そして「こんにちは」と声をかけられました。今思えば,彼女は岩沼で犠牲になられた方の関係者だったのかもしれないな…。
おわりに
仙台市からほど近いところに,東日本大震災の記憶を伝える場所があります(今回訪ねたところ以外にもそういう場所は点在しています)。
それは人々で賑わう仙台空港のすぐ向かいであったり,朝市で賑わうところであったりします。
東北地方に行く機会があったら,みなさんもぜひ足を運んでみてください。
閖上朝市の魚介類も魅力的ですよ。
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