東日本大震災から10年が経ちます
2011年3月11日。東日本大震災が起きたあの日から,今日で10年を迎えます。
あの震災は,僕にとっても本当に衝撃的なできごとでした。
僕は宮城県に13年暮らしました。その間,東北各地にとてもお世話になりました。
東北地方には友人や知人がたくさん住んでいます。妻も岩手出身で,親戚もたくさんいます。
何より,東北地方が大好きです。
本当はこの節目に,僕が長い時間を過ごした東北地方を訪ねたい。そして慰霊碑に手を合わせて来たいのですが,コロナ禍でそれはかないません。
それで思うところを記しておこうかと思います。
東京で震災の日を迎えました
あの日は,東京で仕事をしていました。はじめ大きな縦揺れが来て,そのあと横揺れが来るまでかなり時間があったので,「遠いところで大きな地震が起こったな」と思いました。
けれども横揺れは長く,東京にいてさえ非常に大きなものだったので「これはただ事ではないな」と思いながら机の下に潜りました。
本棚から本が何冊も落ちました。
電車が全て止まったので,早く帰宅するように通達が来ました。職場から自宅まで,4時間くらい歩いて帰りましたが,津波被害の深刻さを知ったのは自宅に着いてテレビを見てからでした。
本当に絶句しました。
名取市の沿岸部で長い時間を過ごしました
僕は宮城県民だった頃,長い時間を名取市の沿岸部,「北釜地区」で過ごしました。
ここは貞山運河を挟んで,仙台空港の対岸(海側)に広がる地域です。この頃,毎日のように北釜地区から同じく名取市の閖上 (ゆりあげ) 地区を往復していたのです。
この場所もまた,津波で甚大な被害を受けました。
僕が過ごしていた建物(鉄筋コンクリートの三階建てでした)の管理人さんは塩竈の漁師さんで,地震のあと2階テラスにいて,避難する地域の人をロープで建物に引き上げたりしたそうです。
そして二階で一緒に過ごしていたところ,水が上がってきたので三階の屋上に上がった。それでも第二波が頭上から襲ってきたときには覚悟したと。
翌日,何もなくなってしまった中を40 km歩いて自宅に戻り,家族の無事を確認したということです。
また北釜地区では僕がお世話になった方も含めて多くの方が犠牲になりました。北釜地区のことは,あまり報道では取り上げられませんでしたが,消防団の方々も殉職されています。
その後北釜は地盤沈下が確認され,災害危険地域に指定されて集団移転となりました。
一方お隣の閖上地区も大変な被害を受けましたが,最近水産加工場などができて,復興へと歩み始めています。名物の朝市も賑わっています。
これは僕も心から嬉しく思っています。
妻は三陸育ち
僕の妻は岩手県の沿岸部,三陸普代村の生まれです。今も沿岸部に親戚や知り合いがたくさんいます。
震災のあとはそんな人たちとも連絡がつかずにハラハラしながら過ごしました(おかげさまで皆さん無事でした)。
三陸は昔から大きな地震のたびに津波に襲われていたところです。
妻は子供の頃から地震が来るたびに,すぐに近くの山に逃げていたと言います。たとえそれが夜中であっても,小さな地震であっても,地震が来ると起こされて山に登っていたと。
普代村には巨大な防潮水門があります。防潮堤の高さも周りの自治体よりも高い15 m。僕も何度か普代に足を運び,防潮堤や水門を見ましたが,見上げるような高さで圧倒されたものです。
この水門や防潮堤は,かつての村長が決断して建造したものだそうです。当時は無駄遣いだと批判する声もあったようです。けれども結果として,これは普代村の震災被害が小さかったことにつながりました。
三陸には,「津波てんでんこ」という言葉があります。これは「津波が来たら,家族や友達を待つことなく,一人ひとりで早く逃げましょう」というような意味の言葉です。
それだけ一刻を争うということなのですが…。これ,響きは可愛らしいけど,すごく重たい覚悟を宿した言葉だと思います。
避難の連鎖
先日のNHKの番組では,地震のあとまだ迫り来る津波の規模がわからない中で,いち早く避難を始めた人の行動が,周りにいる人の「避難の連鎖」を促す役割を果たしていたということが取り上げられていました。
自分が逃げるという決断が周りの人たちの行動にも影響を与え,結果として多くの命を助けることにつながると(”避難のカスケード”)。
災害の時に「正常性バイアス」を持たずに正しい判断を下すことができるか。
これは常に自問自答していきたいと思います。それが自分だけでなく,家族や近所の人の命を守ることにつながるかもしれませんから。
NHKの番組では,被災された方が「逃げようとみんなに言える人になりたい」とも語っていました。本当にそうだなあと,それが被災を逃れたものの責任でもあるなあと思いながら見ていました。
仕事で福島に通っています
2年前から仕事で福島に通っています。
福島県もまた地震と津波で大きな被害を受けました。また原子力発電所の事故もあって,風評被害に苦しめられてきました。
僕にできることは少なく,力及ばないのですが,福島は元気です。山も川も花も変わらず美しく,食べ物は美味しいです。そして出会う人はみなさん親切です。
そんな福島に通って楽しませてもらっています。とても感謝しています。
緊急事態宣言が明けたら福島の仕事も再開すると思いますが,その合間にまたきれいなところを見に行けたらと思っています。桜の季節に行けますように!
そういえば常磐線が全線開通したのは去年の今頃でしたっけ。うれしかったなあ!
おわりに
私たちは災害の多い国に住んでいます。東日本大震災の前にも後にも,大変な災害は各地でありました。
また10年というのは一つの数字であり,これが何かの「区切り」になるわけではありません。
東北地方の復興と私たちの日々は続いていきます。だから今はコロナ禍で被災地を訪ねることはできないけど,行ける時にきっと行こうという気持ちもあります。
正直なところ,あの時から東京に住んでいる僕は何もできない非力さも感じてきました。
芸能人の方が被災地を訪ねて元気づけているのをうらやましく思ったこともあります。
でも自分にできるささやかなことを続けていこうと思っています。
合掌。
そして,行くぜ東北!
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