養蚕と絹づくりの歴史に興味があります。蚕と人との長い付き合いや,蚕が美しい絹糸を吐き出すことに,ロマンとノスタルジーを感じるのです。
仕事で福島に通っているのですが,先日福島駅にこんなポスターが掲示されていました。
福島市は生糸,絹糸の集積地として発展した街です。この展示会ではそのあたりを詳しく知ることができそうです。これは行ってみたい!
ということで翌週,会場のAOZ(アオウゼ)を訪ねてみました。
養蚕の歴史:人と蚕の関わりは古いです
人と蚕と絹
蚕はカイコガという蛾の幼虫です。蚕は桑の葉を食べて育ち,やがて口から糸を履いて繭を作ります。この繭をほぐして絹糸が作られます。
絹は,古代の昔から人々を魅了してきました。蚕と人には長い付き合いの歴史があるのです。
古代日本の養蚕
3世紀の中国の書「魏志倭人伝」には「(倭人は)カラムシ(麻の材料)を植え,桑を作り,蚕から糸を取っている」と書かれています。このことから,この時代にはすでに日本で養蚕と絹づくりが’行われていたと考えられています。
絹は「租庸調」の税のうち「正調」として朝廷に収められました。また絹織物の技術は,やがて着物文化として花開いていきました。
古代中国の養蚕
古代中国でも養蚕は盛んでした。後漢の時代には,すでに絹づくりの技術が確立されていたと考えられています。
その技術は王朝によって秘匿されており,作られた絹は商人の手から手へと渡って,遠くローマまで運ばれていきました。シルクロードです。
養蚕に使われた道具が展示されていました
展示会の会場には,かつて養蚕で使われた道具が展示されていて,見入ってしまいました。かつてこれらの道具を使って蚕が育てられ,生糸が作られていたのかと思うと興味津々でした。
どんなものがあったかというと…
蚕卵紙
蚕に卵を産み付けさせるための台紙です。素材には厚手の和紙が使われています。
表面には「チヂラ」と言われる小じわが施されています。
「春蚕」という文字と,それを囲む眉をかたどった装飾。グッときます。
また蚕卵紙に和紙が使われていたという話から,福島のとなり町,二本松の安達ヶ原ふるさと村を訪ねた時のことを思い出しました。かつて二本松でも養蚕が盛んで,ふるさと村には昔の養蚕農家をそのまま移設した「絹の家」が展示されています。
またこの地方では和紙づくりも盛んだったようで,やはり古い建物を移設した「和紙の家」もありました。
ここで作られていた和紙は養蚕にも使われていたのでしょうか。面白いですねえ!
蚕種袋と蚕種郵送筒
蚕種袋
蚕種を郵送販売する際,蚕の卵の保護のために使用されたと思われます。
製造者の名前,蚕種の扱い方や飼育方法などが書かれているものもあります。
蚕種郵送筒
注文を受けた蚕種の郵送に使われました。
蚕種の郵送は明治から昭和26年10月まで,第5種郵便として取り扱われました。
これらを使って蚕の卵が各地を盛んに行き来していたのでしょうか。往時の養蚕の盛況ぶりが目に浮かんできます。
そういえば最近知ったのですが,以前福島(松川)と川俣町の間に国鉄路線が走っていたんですね(川俣線)。川俣は絹の里。蚕種や生糸が盛んに運ばれていたんでしょうね。
わらだ(かごわらだ)
孵化した蚕の幼虫は,蚕卵紙からわらだの上に掃き落とされます。上簇(繭を作る)までの期間、このわらだが蚕の住処になります。蚕と桑の葉が,このうえに乗っていたんですね。
紙枡
繭を入れて販売に使用したもののようです。「福島県伊達」と書かれていますね。往時が偲ばれて胸が熱くなります。
糸くり
生糸を巻き取るために使われていた道具でしょうか。糸くりが回り,繭が解かれていく様子が目に浮かんでくるようです。
糸車
生糸を撚り合わせてまとめ,強い糸にするために使われます。糸車を使って「撚り」をかけた生糸は,灰などのアルカリ性の汁で煮ることで,真っ白な絹糸へと生まれ変わってゆきます。
丸型枡と生糸箱
丸型枡は繭を計るために,また生糸箱は生糸を一時保管する他に使用されたようです。繭や生糸が入ったこれらの入れ物が多数並んでいた往時が偲ばれます。
蚕と信仰
蚕は古い時代から信仰の対象にもなってきました。
一匹の虫が美しい糸を吐き出し,そうして作った繭に入って眠りにつく…その営みは神秘的ですからね。
古事記には「五穀の起源」という話があって,食べ物の神様・大宜津比売(オオゲツヒメ)の亡骸から稲,麦,粟,大豆,小豆とともに蚕が生じたとされています。
又,食物を大気都比売神に乞ひき。しかして,大気都比売神,鼻・口及尻より,種々の味物を取り出して,種々作り具へて進る時に,速須佐之男命其の態を立ち伺いて為穢汚て奉進る乃ち,其の大気都比売神を殺しき。故,殺さえし神の身に生れる物は,頭に蚕生り,二つの目に稲種生り,二つの耳に粟生り,鼻に小豆生り,陰に麦生り,尻に大豆生りき。
(古事記「五穀の起源」から)
すなわち古代日本人にとって,蚕は大切な五穀と並んで特別なものであり,神聖視されていたということですね。
(それにしても須佐之男命,乱暴すぎ!)
蚕養守護神衣襲明神真影
この会場にも,養蚕の神様として「蚕養守護神衣襲明神真影図」が展示されていました。左手に桑の葉を持ち,右手には蚕種が乗った蚕卵紙を持っているのがうかがえます。
このような蚕神が,かつては養蚕農家の家々に貼られていたのでしょうか。
同様に全国の養蚕が盛んだった地方には,桑の葉を持った道祖神が残っていますね。
ネコは蚕の守り神
養蚕農家では,蚕の天敵,ネズミを追い払うためによくネコが飼われていました。「昔の日本では,ネコはペットしてではなく,ネズミを獲るために飼われていた」とよく言われますが,その話はここからきているのです。
そんなわけで,蚕の守り神,ねこを祀った神社やお寺が日本各地にあります。その多くは,豊蚕を祈願したものだと思われます。
福島市中心街から程近いところにある信夫山の上にも,「ねこ稲荷神社」があります。現在は「ねこの幸せ祈願」スポットになっていますが,かつては養蚕関係の信仰の場所だったんでしょうか。あとで書くように,このあたりには製糸工場もあったようですし。
絹づくりと福島
福島市周辺は阿武隈川沿いの気候と土壌が桑の木の生育に向いていたため,桑の栽培が進みました。そしてこの辺り一帯は養蚕の先進地となり,福島市は生糸流通の中心地となっていきました。
この展示会ではかつて福島にあった製糸工場の写真を見ることができました。とても貴重な記録だと思います。
福島羽二重株式会社
明治40年(1907年)に設立された大型工場で,ここで織られた絹が英国博覧会で金賞を受賞したそうです。
調べてみるとこの工場があったのは現在の森合町。信夫山の麓だったんですね。今度そんなことを思いながら歩いてみたいですね。何か往時の痕跡が残っているでしょうか。
昭栄製糸福島工場
昭和6年に山十組から引き継がれた工場で,当時の工員数は,男性38人,女性565人だったそうです。大工場ですね。
工場があったのは太田町。市の中心部ですね。その跡地は現在ショッピングセンターになっているとのことです。場所からすると,駅西口のイトーヨーカ堂でしょうか。
鐘淵紡績株式会社福島工場(鐘紡)
大正12年(1923年)創業で,職員は男性10人,女性260人だったそうです。
場所は現在の福島高校の近くということで,信夫山のあたりには製糸工場がいろいろあったんですね(他にも日本絹燃などの工場があったようです)。
この写真には働く女性たちの様子が写っていて,貴重な資料だと思います。これは煮た繭から生糸を巻き取っているところでしょうか。
福島に集まった資本
養蚕と製糸業の発展に伴って,福島には蚕種,生糸を扱う蚕物屋が集まるようになりました。そして蚕物の取引に必要となる大量の資本が福島に集まり,第六国立銀行,安田銀行福島支店,第百七国立銀行,福島県農工銀行,日本銀行福島支店,福島商業銀行,秋田銀行福島支店など多くの銀行が設立されました。
これ↓は福島県農工銀行。東京駅を設計した辰野金吾氏による建築物で,赤煉瓦の銀行として親しまれたとのことです。
そういえば同じ辰野氏による,盛岡の岩手銀行と雰囲気が似ていますね。
福島の養蚕の記録
養蚕書
養蚕の技術は経験をもとにして記された「養蚕書」を通して広く伝わっていきました。
福島県北の著者によるものが多く残されており,霊山の佐藤友信による「養蚕茶話記」,梁川の中村善右衛門による「蚕当計秘訣」などがあるということです。
兵庫県出身の上垣守国は郷土の養蚕の発展のために福島県を何度も訪れて研究し,「養蚕秘録」を著しました。これはシーボルトが帰国する際に持ち帰り,欧州に紹介されました。
蚕当計
蚕の飼育には温度管理が重要でした。気温が低いと蚕が桑の葉をあまり食べず,繭の品質も低くなってしまいます。寒冷な福島では隅で部屋を暖める「暖飼育」が行われていましたが,温度管理に失敗すると蚕が全滅する危険もありました。
梁川(現伊達市梁川町)の中村善右衛門は体温計をヒントにして,蚕の成長に適した温度を管理する「蚕当計」を発明しました。
蚕当計(円内)で温度管理をして,蚕に桑を与えている
蚕繁栄之図
江戸時代後期の絵のようです。桑の葉を馬に乗せて運ぶ男,繭を運ぶ女などが描かれています。
養蚕が下火になった福島では
ナイロンの登場と絹への打撃
日本の蚕は明治時代に品種改良が急速に進みました。そして日本は絹の生産で世界をリードし,一気に欧米と肩を並べる列強へと駆け上がっていきます。福島は,官営製糸工場が作られた群馬の富岡などとともに,その発展を大きく支えたことでしょう。
けれども時代は移り変わります。1930年,アメリカのデュポンという化学会社で,ある高分子化合物が開発されます。
ナイロン-6,6と名付けられたこの化合物は,繊維にすると絹に似た風合いを示しました*1。
その分子構造はアジピン酸とヘキサメチレンジアミンがアミド結合(ペプチド結合)を介して数珠繋ぎになったポリマーで,この構造もまた絹(絹はフィブロインという名のタンパク質です)のペプチド結合と似ています。つまり化学の目で見ると,ナイロンは絹を模倣して作られた繊維と見ることもできるのです。
絹はきわめて丈夫な素材で*2,また染料で美しく染めあげることができます。一方ナイロンはしなやかさでは絹に劣るものの,丈夫さでは絹に負けていません。また染色性においても負けていないのです。そして何よりも安価に提供できます。
絹を作るには,蚕の繭からていねいに糸を巻き取っていく,とても大変な作業が必要です。でもナイロンは,一旦プラントを立ち上げさえすれば,どんどん大量生産することが可能ですからね。
その結果,ナイロンが世に出ると,絹はあっという間に駆逐されていきました*3。
実際に,現在絹製品を持っていない人はたくさんいるでしょう。でもナイロン製品を持っていないという人はおそらくいないと思います。良い悪いではなく,これが現状なのです。
かくして,日本の養蚕農家と製糸工場は減少の一途をたどっていきました*4。
*1 とは言っても,やはりナイロンは風合いにおいて,絹には遠く及ばないと思います
*2 約4600年前の浙江省の遺跡から,絹の布が出土しています
*3 NYLONの商品名は「Now You Lousy Old Nipponese」(古い日本製品=絹はもうダメだ) から取ったという説もありますが,おそらく俗説でしょう
*4 2013年に「桑畑」の地図記号が廃止になりました
フルーツ王国・福島への歩み
その後,養蚕と絹づくりが下火になった福島の農家は,果樹栽培に舵を切りました。
くだものづくりに適した福島の気候と農家の方々の努力によって,この試みは見事に実を結び,福島はフルーツ王国になりました。
阿武隈川沿いの土はかつては桑の木を育み,そして今はおいしい果実を育んでいるんですね。
福島のリンゴ,梨,桃…どれもとても美味しいですが,特に桃は絶品でほっぺが落ちます!東京オリンピックの時にも,福島を訪ねたオーストラリアと米国のソフトボールチームの監督が,福島の桃を絶賛していたのは記憶に新しいところです。
2年前のNHK朝ドラ「エール」は福島が舞台でしたね。その中で,呉服商を実家に持つ主人公の弟(浩二)が,農家にリンゴ栽培を奨励するために奔走する場面がありました。
さりげなく描かれていましたが,あの場面は時代の変化を象徴するものだったのでしょう。
ドラマで浩二が苦労していたように,産業構造の転換には様々なご苦労があったことでしょう。美味しい実をつけた果樹を見るたびに,これまでの関係者の方々の努力に頭が下がります。
そういえば花見山に行くシャトルバスの中でも,かつてあの辺りには養蚕農家が数多くあったというアナウンスが流れていたっけ。
おわりに
「福島と蚕」展,大変興味深い内容で,とても勉強になりました。無料で見せていただいて申し訳なく思ったくらいです。
養蚕が盛んな時代の福島市の様子などを知ることもできて,福島の歴史についてもっといろんなことが知りたくなりました。
福島市には,先に触れた信夫山ねこ稲荷神社の他にも,養蚕の遺構がいろいろあるかもしれません。そういうものを探しながら散策するのも楽しいかもしれませんね。
「福島と蚕」展の講演会が25日に予定されていました。こちらにも参加したかったのですが,都合が合わずに残念です。
「着物と蚕の関係を 50年後の子供達は理解できるだろうか?」ツイッターで流れてきたこの言葉が頭から離れません。
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