宮古を訪ねた際「渚亭たろう庵」に泊まりました。その前身である「たろう観光ホテル」は,東日本大震災の津波で大きな被害を受けたところです。
田老地区には,「たろう観光ホテル跡」が震災遺構として保存されています。
たろう観光ホテル跡を訪ねる
忘れることができない2011年3月11日。東日本大震災による津波では,宮古市も大きな被害を受けました。
田老地区にあった「たろう観光ホテル」も被災し,下層階は鉄骨を残して流出するまでに至りましたが,その跡が「震災遺構」として保存されています。
津波によって3階以下は流出しており,特に2階までは鉄骨を残すのみになっています。
近くでよく見ると,建物の基礎部分も崩れています。ここを襲った津波の威力が,いかに凄まじいものだったかがよくわかります。
遺構の脇には,被災状況などを示す看板が立てられていました。ありし日の観光ホテルの姿も映っていますね。
【被災の状況】
たろう観光ホテルは,1986(昭和61)年に建設後,市民や観光客に愛される施設として営業されてきました,
2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で,高さ17メートルを超えるとも言われる津波の被害を受け,4階まで浸水,2階までは柱を残して流出しましたが,倒壊することなく,現在の姿で止まりました。【遺構としての保存】
被害を受けた建物の取り壊しが進む中,宮古市は甚大な震災の記憶を風化させることなく,後世に伝えるための「津波遺構」として保存することを決定しました。
2014(平成26)年3月に宮古市が取得,2016(平成28)年3月までに被災した「ありのままの姿を残すこと」を目的とした保存整備工事を終えました。
今後は,訪れる人々に津波の恐ろしさを伝え,訪れる人々の防災意識を高めることにより,震災に夜被害が繰り返されないことへ繋がるよう,現在の姿のまま保存していきます。
これは貴重な資料だと思います。保存整備工事や保守など,手間のかかることもあるでしょうが,取得・保存に踏み切った宮古市に敬意を表します。
田老地区のいま
津波の爪痕とその対策を見る
たろう観光ホテル跡の周りでは,震災後のこの地域の取り組みや復興の様子を見ることができます。
町のあちこちに,津波の際の避難先を示すサインがあります。リアス式海岸に面した町特有の光景です。
そして,おわかりいただけるでしょうか。この柱の上の方,見上げるような位置に…
拡大してみましょう。そう,あの日まちを襲った津波が「ここまで到達した」ということが示されているのです。
これらのサインを毎日見ながら暮らす三陸の人たちは,津波の脅威をより身近に感じるのでしょうね。
町を守る防潮堤
旧田老町では1896年の明治三陸津波,1933年の昭和三陸津波で,それぞれ1859人および911人が犠牲になりました。
そのあと田老地区には高さ10 mの防潮堤が築かれ,昭和三陸津波から70年の節目である2003年に「防災都市宣言」を出しました。巨大な防潮堤は「万里の長城」とも言われていたようです。
けれどもあの日の大津波は,その防潮堤を乗り越えて町を襲いました。
↓(注意)津波のショッキングな写真が掲載されています。
階段を探し、四つんばいではい上がった。水は2階に達する寸前で止まったが、夫の姿は見えなかった。「命てんでんこだから堪忍して」とわびた。
田老地区の防潮堤はより高いものへと作り替えが進んでいます。新しい防潮堤は高さ14.7 m,一昨年に完成しました。
見上げるような高さの新防潮堤。町はかさ上げされ,住宅地の高台への集団移転なども進められました。
川にかかる田老漁港第一水門も巨大です。
渚亭たろう庵から見た田老地区*1。海と旧たろう観光ホテルを新しい防潮堤が隔てています。新防潮堤に町が囲まれているんですね。
たろう観光ホテル跡の隣には,新しい水産加工品工場ができていました。こうして復興への道のりが見えてくるのはうれしいものです。
工場の壁にも書かれていますが,三陸のわかめ(真崎わかめ)は肉厚でとても美味しいんですよ。
*1 渚亭たろう庵は高台の上にあります
紙しばい「つなみ」
渚亭たろう庵に紙芝居が置かれています
そういえば,渚亭たろう庵にも「つなみ」という紙芝居が置かれていました。
恐ろしい絵柄ですが,こうして津波災害を語り継ぎ,警鐘を鳴らしていくことは,重要な意味を持っています。特にこの地域においては。
この紙芝居は東日本大震災ではなく,昭和8年(1933年)に起きた「昭和三陸大津波」の様子を描いたものです。
当時8歳だった田畑ヨシさんは,その時の経験を伝えようとボランティア活動を続けていました。そして田畑さんの紙芝居は2007年に「絵本・紙芝居 つなみ」として出版されました。東日本大震災が起こる4年前のことでした。
田老地区の復興の歩みも
また渚亭たろう庵には,田老地区の復興の歩みを示すポスターも貼られていました。
ポスターには2011年3月28日と2020年9月8日に撮影された町の写真が掲載され,新防潮堤の建設や住宅地域の集団移転のことなどが説明されています。
この集団移転に伴って,三陸鉄道リアス線の田老駅も場所を改めたんですね。
「渚亭たろう庵」は大変おしゃれなホテルでしたが,ここにも復興への道のりやこの地方の覚悟が見られることに感銘を受けました。
妻は三陸育ち
僕の妻は三陸の普代村(久慈市と宮古市の間にあります)で生まれ育ちました。地域がら,小さい頃から津波の恐ろしさを教え聞かされ,地震が起きれば夜中であっても高いところに避難していたそうです。
先の新聞記事にも出てきましたが,三陸地方には「津波てんでんこ」という言葉が伝わっています。響きは可愛らしいけど,これはとても重い覚悟を秘めた言葉ですよね。
「津波てんでんこ」は、津波からの避難についての標語ないしは合い言葉である。
「てんでん」とは、「てんでに」や「てんでんばらばらに」という意味で、「津波てんでんこ」とは、薄情なようではあっても「てんでんばらばらに急いで早く逃げよ」という、津波から逃れるための教えである。
三陸地方では昔から「津波起きたら、てんでんこだ」と伝えられてきた。(wikipedia から)
宮古魚菜市場「魚彩館」で海の復興を願う
宮古「魚彩館」へ行こう!
たろう庵をチェックアウトしたら,宮古市の魚菜市場「魚彩館」に向かいます。
魚市場を覗いて回るのは楽しい!時間を忘れてしまいますね。
この辺りも震災・津波の被害は大きかったと思いますが,今は活気があってうれしいです。
海と共に生きる三陸の町。「海の復興」が町にとっては欠かせないことなんでしょう。
ホヤと牡蠣を食べよう
魚彩館ではどの魚も美味しそうで,いろんなものを買いたくなります。でもまずは,何と言ってもアレを食べなければ!
海の復興のシンボル,ホヤです!朝どれ新鮮,1個150円 (^◡^)。
魚屋さんの店先で捌いてもらって,その場で食べます。美味しすぎる!このあと運転がなければ一杯やりたいんですけどね(笑)。
次は…牡蠣かな(涎)。こちらも箱にいっぱい!大きな牡蠣が1個200円。
これも殻を開けてもらって,その場で食べます。プリップリ。たまらないんだよなあ。
最高ですね。「海の復興」を応援しながら,これからも東北の海産物を味わっていきたいと思います(誰ですか?食べたいだけでしょって言ってるのは 笑)。
新しい道路ができて,盛岡から宮古へ行きやすくなりました
盛岡宮古横断道路(国道106号線)は東日本大震災のあと,三陸地域の経済復興,医療アクセスの改善などを目的とした復興支援道路として整備が進められました。
現在は自動車専用区間を含む高規格道路として全線開通し,盛岡から宮古まで1時間半くらいで行けるようになっています。
途中の道の駅で食べたラーメンも美味しかった!(どんだけ食べるんだ)
おわりに
アクセスも良くなって,近くなった三陸。更なる復興を願いつつ,また行きたいものです。
三陸地域は「陸中海岸国立公園」として以前から美しい海岸線を有することで知られていましたが,震災後に「三陸復興国立公園」とその名が改められたことも追記しておきたいです。
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