画家の玉川麻衣さんの個展「常夜の月」が,京橋の八犬堂ギャラリーで開催されました。
玉川さんが描かれるのは,この世ともう一つの世界=常夜・常世のあわいにいる者たち。
それは絶滅していなくなってしまったオオカミであり,妖怪であり,この世に時たま姿を見せる魂であったりします。
「常夜」とは、常に夜が続く、即ち「死後の世界」を意味しますが、かつては「常世」ど同義でした。
「常世」とは永遠に不変の神域であり、民俗学者の折口 信夫曰く「マレビトの訪れる理想郷」でもあるそうです。
繊細なペン画で描かれた,それらあわいの者たちがいるギャラリーは,都心の雑踏の中で,ひんやりと静かな空間になっていました。
ここでは,拝見した絵の中の何枚かを,感想と共に紹介したいと思います(絵の写真を撮ることは,玉川さんご本人に許可をいただいています)。
狼絵2枚
ギャラリーには,玉川さんが描き続けている狼の絵がたくさんかかっていました。いずれもF0の小さな絵なのですが,その中にあふれる生命感は濃密です。
飾られていた狼絵は,いずれも狼たちの息遣いが聞こえてくるようでした。その中でも「臥待ち」が特に好きです。滅びていった狼たちの安らげる場所が,山ふところにある。その場所を草木や月の光が見守っている。そんなことが語られているようで。
それにしてもこんなに次々に狼絵を制作できるなんて。玉川さんの中にはいつも狼が駆けているんですね。
磯女
「磯女」とは,海の水蒸気が情念となって、もやい綱を伝って船に上ってくる,そんな妖怪です。この絵,月の光に照らされた海の輝きと,水面から立ち上る蒸気の表現がすごくないですか?
そしてコワイ磯女ですが,確かに妖艶…というか生々しいですね。
この絵は小島が浮かぶ島原の海を題材に描かれたもので,背景には島原の山の形が描かれているそうです。写真ではわかりにくいですが。
漁に出る人たちは「板っこ一枚下は地獄」ですからね。そんな畏れの気持ちから,磯女のイメージをいっそう強く感じ取るのかもしれないなあと思ったりしました。
二十六夜
宮沢賢治の童話「二十六夜」に題材をとった作品。
イーハトーブの森は,たしかに精霊の住む「あわい」であることに違いはないのですが,この絵は優しさ・暖かさで満たされています。
岩手の森に行くと,森の木が天の川のシルエットになって見えるような所が本当にあります。そんな森では,賢治の童話で語られるような,梟たちの説法が行われていることが,実感を持って感じられます。
獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢こずゑが、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えてゐました。
二十六夜4では,雲間に小さく銀河鉄道が描かれています。「二十六夜に銀河鉄道は出てこないけど,穂吉にジョバンニやカンパネルラと一緒に銀河鉄道に乗って旅をしてほしい」と玉川さん。
–– 南無疾翔大力、南無疾翔大力。
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さて,このあとギャラリーの奥に進んだんですが,そこにはものすごく深い情念が込められた絵が3枚かかっていて,圧倒されました。
そのうち2枚を紹介します。
樹海によせて
「富士の樹海に行きたい」。玉川さんがそう言ったら,丹波山村のTさんが連れて行ってくれたそうです。
行ってみると富士山の溶岩に木々がたくさん生えていて、大地のエネルギーを感じる,とても豊かで暖かい感じのするところだったそうです(昼間だったからかもしれないけど…と玉川さんは笑ってらしたけど)。
こういうところに抱かれて眠る者たちは幸せなんじゃないかという思いを抱いたとのことですが…。
透明になった行者たちが歩いてやってきます。彼らの唱える御詠歌が聞こえてくるようです。
玉川さんの絵は,変わらず夜の森の表現が素晴らしいですね。絵の前に立つ自分が,宵闇に包まれていきます。
絵の右上の方に,白いぼんやりしたものがありますね。「これ,何ですか?」と聞いたら,玉川さん,「ぶら下がっている…」って。やめてー(笑)。
この絵を見ていたら,ちょうどそこはエアコンの風が当たるところだったんですけどね。それが,描かれている風穴から噴き出す風のように一瞬感じられて,ビビったのは内緒です。
「八百比丘尼」
死者を抱いた八百比丘尼。「和のオフィーリア」とも見えてくる絵ですね。
周りを彩るのは桔梗,撫子,芒。秋の七草と朝顔です。花に埋もれ,月に照らされながら草に眠る比丘尼の表情は,幸せそうに見えます。
そんなことを言ったら,玉川さんは教えてくれました。
昨年玉川さんは,お父様を看取られたのですが,その時の心象を投影して描いた絵だと。
絵に描かれている通り,お父様は玉川さんの腕の中で逝かれたと。
…お父様とは確執もあったけど、腕の中に抱いていると、魂が溶け合っていくような気がした。そしてお父様が旅立たれた時、自分も黄泉の水に半分浸ったように感じたけど、この絵を描くことで、現世に戻って来られたと。
お父様は常世の国に行かれたんですね。この個展のタイトル「常夜」は,玉川さんが描き続けている世界そのものだけど,同時にこの時玉川さんが身近に感じた場所でもあったのでしょうか。
ところで,「樹海に寄せて」と「八百比丘尼」の量方,絵の隅の方にちっちゃくカエルが描かれています。玉川さんはカエルが好きで,絵の中によくカエルをさりげなく描かれています。
これがちょっとした茶目っ気のように感じられるとともに,常世がそういう「茶目っ気」というか「好きな者がいる寛容さをもつ世界」であることを示しているようにも感じられるのです。
常世の国
話が前後しますが,「常世の国」とは,古来日本で信仰されてきた異世界。
それは海の彼方にある,タチバナの実のなる理想郷です。そして同時に,死後の世界,根の国,祖霊のなす幽界,さらに沖縄の「ニライカナイ」にも通じるとされてきました。
またここは種々の漂着物を届け,また新しい生命を届ける場所でもあります(「常世の国」のイメージには,「こちらからあちらへの視線」だけでなく「あちらからこちらへの視線」が内包されているように思われます)。
このように「常世」には重層的なイメージが重なっており,古代日本人の他界観・死生観を理解する上で大切なキーワードになっています。
民俗学者の谷川健一は,その著書「常世論––日本人の魂のゆくえ」の中で,「常世のイメージは,日本人が黒潮に乗ってこの列島にやってきた時の記憶の航跡をさえ意味している」と述べています。
この世になぎさがあるのと同様に,あの世にもなぎさがある。海神の娘の豊玉姫は,自分の産んだウガヤフキアエズをなぎさに置き去りにして海神宮に逃げかえったが,「海の底におのずからに可怜小汀 (うましおばま) あり」と日本書紀はその消息を伝えている。
谷川健一「常世論」から
彼は「開かれた書物の左右対称のページはそれぞれこの世であり,あの世であって,その中心軸にあるものが,なぎさであった」というのです。
「なぎさ」は玉川さんが言うところの「あわい」であるのでしょうか。
狼たち,二十六夜の梟,樹海の行者たち,死者を抱いた比丘尼。玉川さんが「常夜の月」で描かれた絵には,滅びていったもののサンクチュアリがあり,こちらへ響いてくる遠吠えもあった。その世界は,まさに常世への入り口であったように思います。
おわりに
静かなギャラリーには現世と常世が交差していて,その間をたゆたうような時間を過ごすことができました。
玉川麻衣さんの絵を見ていると,想像力がいろんなところに飛んでいきます。
個人的にはちょっと慣れてきて(ヘラヘラしている割には人見知りなんです),玉川さんと今までよりもお話ができたのもうれしかったです。
どうもありがとうございました。
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