岩手県遠野市は「民話のふるさと」。ほっこりする話,物悲しい話,ちょっと怖い話…バラエティ豊かな言い伝えが残っています。
またそのお話の舞台となった場所がそのまま残っていて,私たちの「原風景」ともいうべき場所がそこかしこにあります。
遠野の民話は,民俗学者の柳田國男によって収集され,「遠野物語」としてまとめられています。この本は,カッパや座敷童,寒戸の婆などを生き生きと描き出していて,不思議なロマンに満ちた町・遠野を訪れずにはいられなくなります。
- 遠野伝承園に到着
- 旧菊池家(南部曲がり屋)へ
- 遠野物語の世界観に浸る
- 遠野地方の養蚕の歴史が展示されています
- おしら堂––御神木の桑の木と小さき神様たち
- 曲がり屋の居間は座敷童の住処
- カッパ捜索中
- おわりに
遠野伝承園に到着
遠野にはカッパ淵,福泉寺,でんでら野などなど,見どころがたくさんあって,1日ではとても回りきれません。
この日訪ねたのは「遠野伝承園」。遠野市街地からそう遠くない場所にあります。
入場するとこんなところ。古い時代の茅葺きの建物が再現されていて,ノスタルジックな雰囲気です。
藁葺き屋根に囲まれた植え込みは,こんな形に刈り込まれていました。やっぱりカッパなんですねえ (^◡^)。
入り口近くには,園内の案内図があります。中心となる南部曲がり屋の他に,板倉や水車小屋など見どころたくさんです。
旧菊池家(南部曲がり屋)へ
伝承館で中心となる展示物が,国の重要文化財でもある「旧菊池家住宅」。
ここはかつて人と馬とが一つ屋根の下で暮らしていた「南部曲がり屋」です。
草履がぶら下がっているところを横目に,曲がり屋へ入ります。
中に入ると,機織り機のある部屋。あとで書くように,遠野は養蚕が盛んだったところです。ここでも絹の布が織られていたんでしょうか。
居間と思しき部屋には「大国主命」や「事代主命」などが祀られており,御神体の鏡も置かれていました。
養蚕農家ではこんな神様がよく祀られていたようですね。
蚕は五穀と並ぶ神聖なものとして,「古事記」にも描かれています。これらの神様は,そんな繋がりで祀られるんでしょうか。
須佐之男命は食べ物を大気都比売神に求めた。そこで大気都比売神が鼻や口,尻から種々の食べ物を取り出して献上しようとしたところ,須佐之男命は食べ物を汚して差し出されたと思い,大気都比売神を殺してしまった。かくて,殺された神の体の頭から蚕,目から稲,耳から粟,鼻から小豆,陰部から麦,尻から大豆が生じた。
(古事記「五穀の起源」)
蚕は,私たちが生きていく糧となる五穀と同時に(それも頭から)生まれているんですね。
大気都比売神(オオゲツヒメ)は食べ物の神様です。それにしてもスサノオ,ずいぶん乱暴な神様ですなあ…。
遠野物語の世界観に浸る
L字型をした曲がり屋の一辺は,厩になっています。
かつてこの地方では馬が大切にされ,文字通り人と共に暮らしていたということですね。
遠野における人と馬の深い繋がりは「オシラサマ信仰」に繋がっており,遠野を語る上で重要な要素となっています。
遠野の村に父親と娘が二人で暮らしていた。雪のように光る若駒がいて、娘と若駒はいつのまにか離れられない仲になった。父親は次第に若駒を憎み、ある日若駒を裏山の桑の木に吊るしたところ,若駒は苦しんで死んでしまった。娘は、泣いて泣いて,泣き崩れた。やがて、銀色に光る馬の毛皮に包まれた娘は、空高く舞い上がっていった。
(柳田國男「遠野物語」から)
これが「遠野物語」で語られた「オシラサマ」の一節です。
でもこれだけでは,オシラサマがどんな神様なのか分かりにくいですね。実際,民俗学者には「オシラサマが何の神なのかは,明らかとは言えない」とする人もいるようです。
一方,この話の後日談が「聴耳草子」の中で語られています。
父親は嘆き悲しんだが,ある夜、夢を見た。「私を育ててくれたお父さん、ご恩返しに土間の臼に、頭が馬に似ためんこい虫をさしあげます。それは雪の様な繭を作る私の化身です」
夜明けを待って、土間の臼の上を見ると「娘の化身」がいた。裏山の桑の葉を食べた蚕は、雪のような繭を作り、若駒の毛皮そっくりのやわらかい銀色の布になった。
父親は裏山の桑の木を切って、一組の神様を作った。一つは娘、一つは若駒。その名前はオシラサマ。
遠野は蚕が大切に飼われて、銀色の繭を作る村。蚕の神様は、オシラサマです。
(「聴耳草子」から)
つまりここでは,オシラサマは養蚕の神様とされているわけですね。
ここ伝承園でも「オシラ堂」へ続く廊下に,遠野の養蚕の歴史を示す資料が展示されており,オシラサマと養蚕とのつながりが示唆されているようでした。
旧菊池家を出ると,建物の形がよく分かります。向かって左側が厩,右側が人の居住スペースだったようです。
遠野地方の養蚕の歴史が展示されています
旧菊池家の厩から渡り廊下が続いていて,オシラ堂へと続いています。
この渡り廊下には,遠野地方の養蚕・絹づくりの歴史が展示されています。今にも動き出しそうな糸車。
糸くりが「より」のかかった糸を巻き取るときの音が聞こえてくるようです。
巻かれた生糸の後ろには,「蚕祭文」が壁一面に書かれています。興味津々で全部読みたかったけど,時間切れ。だってすっごく長いんだもん。
糸くりに巻かれた生糸。これを灰汁などのアルカリ性の汁で煮ることにより,美しい絹糸が得られます。
糸がかけられているのは「牛首」。これに糸繰りを取り付けて,生糸を巻き取るために使ったようです*1。
それにしても束ねられた生糸の美しいこと!この輝きが古くから人々を魅了し,シルクロードが開かれ,東西の交易が発展した…。そんなことを考えると,いろいろと想像が捗りますね。
糸巻きに巻かれた絹糸をアップで撮ってみます。なんて細く,なんて美しいんでしょう!
この細い糸が,近代日本の発展を支えたんですね。
この美しい糸を得るためには大変な手間を必要とします。かつて製糸工場で働いていたのは,多くが地方の女性たちでした。その裏には,「女工哀史」に語られたような痛ましい出来事もあったことも記しておくべきでしょう。
そんなことを思いながらこの絹糸を見ていると,美しさの向こうに,糸を紡ぐことの喜びと悲しみが見えてくるようです。
*1 絹作りに用いられていた道具については,農林水産省のこちらのサイトが面白いです。
おしら堂––御神木の桑の木と小さき神様たち
養蚕の資料を見ながら廊下を抜けると,「おしら堂」があります。ここは桑の木で作られたオシラサマが数えきれないほど祀られている小部屋。
そう,今回伝承園に来たのは,おしら堂が見たかったからなんです。
おしら堂に入ると,部屋の真ん中に立てられた大きな桑の木。そしてその木を囲む壁一面に,小さな神様が飾られています。
オシラサマです。一つは娘,一つは若駒…。
真ん中の桑の木にはしめ縄がかけられており,これが神聖な木であることを示しています。
かつて日本の地図記号には「桑畑」がありました。
数多くある耕作地の中で,なぜ桑畑に独立した地図記号が与えられたのか。
それは以前,桑畑が全耕作地に占める割合が大きかったからでもありますが(昭和中期には,耕作地の4分の1ほどが桑畑であったようです),何より大きな理由は,桑畑が日本人にとって神聖で特別な場所だったからでしょう*2。
…だって蚕は五穀と同時に生まれたのであり,桑の木はその蚕を育むものなのですから。
けれども絹がナイロンに取って代わられ,養蚕農家が減っていくともに,桑畑はどんどん姿を消していきました*3。
そして2013年,ついに桑畑の地図記号は廃止されました。
そんなノスタルジックな物語を秘めた,桑の木とオシラサマ。
部屋の中は呪術的な神秘性で満たされていて,なんだか圧倒されるようです。
壁に飾られた神様。年代を経ているものも多いのでしょう,その服が色褪せてきているものもあって,それがいい味を出しています。
部屋の一角には祭壇のようなところがあって,ここに「青森県のオシラサマ」という説明書きがありました。
オシラサマ信仰が結構な広がりを持っていたことが分かります。養蚕自体が全国各地で行われていたわけですからね。
オシラサマ,オスラサマ,オシナサマなどと呼ぶ。桑の木で作り2体1対で砲頭型が多い。災難除け,病気治癒,農業手伝神,お知らせの神,粗末にすると咎める神と言われている。
南部地方では旧正月18日〜3月16日までの間に家にイタコを呼んでオシラサマを遊ばせることが多く,オシラ祭文を唱え両手に持って操り,一年の吉凶を占う。
津軽地方のオシラ信仰の中心は弘前市久渡寺の「オシラ講」である,5月15日・16日には,美しい錦で包まれたオシラサマを持参して多くの参拝者が集まり,判をもらって「位」を授かる(後略)。
南部地方の「砲頭型」のオシラサマはこちら。興味深いですねえ。
遠野のオシラサマに戻りましょう。桑の木で作られた神様には,ささやかな願いが書かれた布がかけられてカラフルです。
桑の木に願いをかける––この行為は,養蚕が盛んだった頃から,今も変わらずに続いているんですね。
*2 独立した地図記号が与えられている耕作地に,もうひとつ「田んぼ」がありますね。いうまでもなく,お米は日本人にとって特別なものです。
*3 絹がナイロンに駆逐されていった経緯については,こちらの記事をご覧ください↓
曲がり屋の居間は座敷童の住処
オシラ堂を出たら,あらためて菊池家住宅の居間を覗いてみます。
飾られているのはまゆ玉。昔から養蚕で得たまゆを着色して,こうやって飾っていたんでしょうか。
居間の片隅にはお人形↓。遠野の子供たちは,曲がり屋の居間で,こんなお人形さんと遊んでいたんでしょうね。
遠野は寒いところですが,子供たちの過ごした日々が,穏やかなものだったらいいなあ。
部屋の隅に置かれた行灯には,座敷童のシルエット。手前の紙風船は,座敷童が遊んだものかな?
しばらくここにいたら,座敷童が駆ける「タタタタ…」という音が聞こえてきそうですね。
旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず。この神は多くは12〜13ばかりの童児なり。をりをり人に姿を見することあり。
(「遠野物語」から)
またこの部屋でも,雛壇にはオシラサマが祀られています。かねてより,オシラサマ信仰は生活に根ざしたものだったということなのでしょう。
ところでこちらのオシラサマは,着物のような柄の衣服を纏っています。養蚕・絹造りとオシラサマのつながりが,ここにも示されているようです。
オシラサマの雛壇の奥には,こちらもまた遠野のシンボル,カッパが描かれた衝立が置かれています。
味のある座敷ですねえ。ここで過ごしたら,体ごとどっぷり遠野物語の世界に浸ることができそうです。
カッパの衝立の上に下がっているのは吊るし雛。子供たちの成長を願って手作りされる吊るし雛は,味があって大好きです。
吊るし雛は日本各地で作られているようですが,東北地方では特に盛んな印象があります。福島の飯野町でも「吊るし雛祭り」が行われていますよね。
吊るし雛をよく見ると,猫やウサギ,金魚に混じって馬の雛もありますね。これは遠野地方,南部曲がり屋に特有なものなのかな?
菊池家の曲がり屋を出ると,スズメたち…じゃなかった,スズメのオブジェがお見送りしてくれました。
カッパ捜索中
何度か書いたけど,オシラサマや座敷童と並んで,遠野の象徴になっているのがカッパ。
ここ伝承園は,カッパ淵のすぐそばにあります。
ちなみに遠野のカッパは赤い色をしているんだとか。
旧菊池家の見学を終えて入り口に向かう途中,壁にこんな張り紙が。
…か,カッパ焼き!?
一瞬カッパを焼いて串に刺したものを想像してしまいましたが,「粒あん」と書かれているのを見るに,カッパの形をしたどら焼きみたいなものでしょうかね。
ぜひ食べてみたかったけど(もしかしてもしかすると,カッパのエキスがちょっと入ってるかもしれないし),この日はもう売り切れでした。残念!
伝承園入り口には,こんなビラが置かれています。なになに?
カッパを探しています
1974年7月中旬頃,遠野市附馬牛町の猿ヶ石川付近で目撃されて以降,遠野市ではカッパが目撃されていません。河童の目撃情報を求めております。
カッパの目撃情報は伝承園までお越しください
わははは,このノリ,大好き!
おわりに
遠野は本当に奥深いところ。何度訪ねてもその魅力は尽きることがありません。
出会う風景ひとつ一つが,私たちの原風景であるような,そんな気持ちになるところです。
養蚕と絹作りの営みは,日本では着物文化として花開いた。それがここ遠野では土着の信仰と結びついて,オシラサマとして祀られている…。
愛おしい空間だと思います。
「遠野」という地名からして,魅惑に満ちているよね。
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